Toshiaki Shibata’s diary http://tshibata.blog03.linkclub.jp/ 画家・柴田俊明の公式ブログ。 ja-jp 2024-05-17T11:29:30+09:00 2023年うしお画廊での個展を終えて http://tshibata.blog03.linkclub.jp//index.php?itemid=232591 今回の個展について、多くの皆さまからコメントを頂戴しましたので、今回はそれについてお話したいと思います。何と「これまでも勿論良かったのですが、今回の個展がこれまで拝見した柴田先生の個展の中でも一番良かった」というご意見を複数頂きました。その他にも、幾つか嬉しいコメントをご紹介します。「これまで以上に、人物がグッとこちらに迫ってくる感じで、心を引き寄せられた」「DMでみた風景画の色は、印象ではマゼンタが強く見えたが、実際には色のバランスは絶妙で、印刷物ではわからない美しい色の重ねや丁寧な描画が観られてよかった」「これまで以上に、赤の使い方が絶妙で、深みを感じた」「印刷物やネットで見た時にはもっと偶発的な描画と思ったが、実物を観るとそうではなく、よく練られて色を置かれていることがわかって感動した」「これまで見たことがない、新境地と感じる作品も多いように思えた」その他、個展期間中と終了後に多くのご意見・ご感想を頂き、有り難く思っております。私自身は、今回の個展とこれまでの個展の作品と比べて、制作方法や考え方を、何か意識的に変えたという訳でもないのですが、皆さんが何か良い変化を感じ取られたのであれば、それはこれまでの積み重ねから得られた成果だと思うので、とても嬉しいです。今回の個展で30回目となりましたが、2000年、うしお画廊の前身であるみゆき画廊での個展以来、11回個展をしてきたわけですので、私にとってこの画廊は、発表のホームグラウンドだと言うことができます。みゆき画廊からうしお画廊に移転後、2017年、2020年、そして今回2023年と個展を重ねて参りましたが、実は「少しずつ内容に良い変化が現れてきたのではないか」と、画廊オーナーの牛尾さんからも同様に嬉しいお言葉を頂きました。牛尾さんとのお話に挙がったのは、私を取り巻く環境の変化です。5年前、武蔵美を退職し、同時に公募団体展への参加をやめたことが、私の作品に良い結果をもたらすことになったのではないか、ということだと思います。そのように考えると、確かに作品制作上、より自分の表現を追究する姿勢を維持しやすい環境になったのは確かです。安定した収入はなくなりましたが、様々な制約が減り、時間とエネルギーをより純度の高い状態で制作に使うことが可能になりました。勿論、時間をかければ必ず良いものが出来るわけではありません。しかし絵画 .. 2023-10-19T20:52:00+09:00 「第30回 柴田 俊明 展 “ Variation and Unity ” < 変化 と 統一 >」開催にあたって http://tshibata.blog03.linkclub.jp//index.php?itemid=232590 「第30回 柴田 俊明 展 “ Variation and Unity ” < 変化 と 統一 >」開催にあたって1989年の初個展以来、34年が経ち、今回で30回目の個展となりました。これまで、観察表現を通して目に見えない何かを探ったり、古典的表現から新たな表現を模索したり、普遍的なものから特殊なものを見つけるなど、「矛盾を成立させること」をコンセプトとして制作をしてきました。矛盾や対立をひとつの作品として「統一」していく中で、発展が生まれるからです。このような制作に対する考え方や姿勢は、大学院以来「不可視のものを描く画家」と言われたロシア・アヴァンギャルドの画家パーヴェル・フィローノフ(1883-1941)の作品と理論を研究し続けてきたことや、2018年まで22年間、武蔵野美術学園での教育研究に関わらせて頂いたことによる影響が、様々な意味で自らの作品制作に還ってきていると実感しております。そして絵を描くことの面白さは何かと考えた時、今惹かれるのは「変化」です。同じ動きを繰り返しても、あるいは固定されたポーズでも、モデル本人やその周囲の状況や時間により微妙な変化が生じます。風景や静物でも、時間の経過によって様々な変化を見つけることが出来ます。観察を通してそれらをみつけることが面白く感じるのです。捉えた微妙な変化の示すものを探っていきたいと思います。2023年10月2日柴田 俊明 .. 2023-10-03T20:56:00+09:00 絵画の芸術的価値は造形性 http://tshibata.blog03.linkclub.jp//index.php?itemid=232305 音楽だったら、どんな立派なテーマや共感出来る物語があろうと、リズムやメロディー、ハーモニーがつまらないと繰り返し聴こうという気になりません。音楽性が低ければ惹かれないのです。美術は違う、という人がいますが、私は同じだと思います。例えば絵画なら、やはり、惹きつけられる作品には、優れた造形性があります。色や形、構図、構成、タッチやマチエールなどです。テーマやストーリーも重要な要素であると思いますが、そこが第一条件ではないと思うのです。もしそこが第一条件に出来る作家がいるとしたら、十分な造形力があるからこそでしょう。例えば、ミケランジェロの「天地創造」と「最後の審判」。歴史に残る名作、システィーナ礼拝堂の壁画ですが、これはキリスト教的なテーマで描かれています。でも私などはこの世界観を詳しく知らないし、そもそも家の宗教は神道なので、その点に親近感はありません。しかしこの作品は素晴らしいと思うのです。それぞれがどのような場面を描いたものであるかは良くわからないですが、この作品世界にグッと引き込まれていきます。あらかじめ書きますが、キリスト教的世界観が素晴らしいか否かを論じているのではありません。ある人には素晴らしいものであり、また別の人にはどうでもよいものかもしれません。しかし、そこに関してどのような価値観を持っていようとも、この作品の芸術的価値については、世界中のほとんどの人が認めざるを得ないのではないかと思います。これは造形的な問題だと思います。ところで、素人が描いたヘタな絵でも素晴らしいものがある、という方がいらっしゃいます。私はカルチャースクールや絵画教室などで、多くの受講生を教えて来ましたので、それについては経験がありますから、その意見はある程度理解できます。また、子どもが描いたらくがきのような絵でも、素晴らしいものがある、という人もいらっしゃいます。これも理解できます。しかし、これらの事例を根拠にして「良い絵を描くのには技術や知識は必要ない、関係ない」ということは出来ません。ましてや「技術的に優れた作品は良い作品たり得ない」という意見には全く同意出来ません。素人や子どもの絵が面白く、魅力的に感じることがあるのは確かです。でもいつもではありません。そういう時もある、ということにすぎません。彼らには、絵画制作の基本的な技術がなく、専門的知識もありません。だからこそ、専 .. 2023-04-23T03:48:00+09:00 ギャラリートーク 「私の作品における赤について」 http://tshibata.blog03.linkclub.jp//index.php?itemid=232056 淡路町カフェ・カプチェットロッソにて、10月10日、個展期間中に「オータムフルートコンサート&ギャラリートーク」イベントを開催しました。以下、ギャラリートークの内容を公開します。柴田俊明ギャラリートーク【私の作品における赤について】 ご来場の皆さま、こんにちは。柴田俊明と申します。 皆さま、本日は淡路町カフェ・カプチェットロッソにようこそお出かけくださいました。 白川真理さんと赤松美代子さんの素晴らしい演奏、お楽しみ頂けましたでしょうか?素晴らしき演奏の後に大変恐縮ではございますが、これより、ギャラリートークということで、しばらくの間、私の絵の話をお聴き頂ければと思います。皆さまのお手元にお配りした資料は、5年前、立川のたましんギャラリーにて開催された、私の回顧展の図録です。回顧展ですので、過去の代表的な作品が掲載されておりますので、展示作品と併せて、これからお話する際の参考にして頂ければと思います。 私にとって初個展以来、33年経ち、今回、28回目の個展になります。「change and harmony」というサブタイトルをつけさせていただきました。 2020年あたりから、私の作品のテーマとして、「change and motion」と言うものがありました。これは、「変化と運動」というような意味です。本来、絵画というものは、静止した世界です。現実の世界の時間は、一瞬たりとも止まることのないわけですが、その美しい一瞬を切り取って、永遠に閉じ込めたのが絵画の世界です。 つまり、そもそも絵画には本来はchangeもmotionもない、変化も運動もないわけですが、これを制作者の立場で見ると、描く対象の変化や運動を捉えていくことになります。この矛盾が、実は非常に面白いわけです。 例えば、モデルさんを使って絵を描く時、ポーズを一定時間固定して頂くのですが、人体の構造を捉え、ポーズの流れを捉えていくことで、動きのあるポーズを表現出来ます。動かない絵に動きが生まれ、変化のない絵に、変化を表現出来た時、制作者としての大きな喜びが生まれます。資料にはそのような考えで描いた作品が幾つか掲載されております。  そのテーマから派生した今回の「change and harmony」というサブタイトルですが、これは主に絵画における「形と色の変化と調和について」を示すもので .. 2022-11-26T12:57:43+09:00 ウクライナ情勢と「自分の目を疑うこと」 http://tshibata.blog03.linkclub.jp//index.php?itemid=232034 絵の教え子で、神奈川県の美術館で学芸員をされている方が、先日の私の個展に来てくださった時のことです。ひとしきり絵の話をした後、ウクライナ情勢についての話題を振ってきました。私がロシアの美術家の研究をしており、訪露経験もあるので、話を聞きたかったとのこと。現在の日本では、西側諸国の一員としてウクライナを支援する米国の側からの報道が圧倒的に多く、ロシア側からの情報はほとんど無視されているように感じられるため、「ロシア=悪」「ウクライナ=正義」という形が出来上がっているわけですが、それについて疑問に思い、「ロシア側からの情報も知りたいので教えて欲しい」「その上で柴田先生は(ウクライナ情勢を)どう考えているか教えてください」とのことでした。私もあらためて考えたのですが、特に、このような紛争絡みの情報というのは、ひとつの出来事に対して、一方から発信された情報だけで判断するのは難しいです。ですので、両方それぞれの立場から発信された情報を、出来るだけ多角的に見比べる必要がある、ということは確かです。ですので、このような質問をされた時点で、この方は鋭いなあ、と感心しました。とはいえ、私も日本に住んでいるわけですし、ロシアには近年行っておりませんので、得られる情報には限りがあるのですが、知っていることをお話した上で私見を伝えました。その際「先生はどのように情報を選別し、どのように客観的に情勢を判断しているのですか?」と聞かれました。これもまた、とても良い質問だと思ったのですが、非常に難しいことでもあるなあ、と思いました。「まず、重要なのは、それぞれ当事国や、その周辺地域の、文化を含めた『歴史』を知ることが大切だと思います」と答えました。真理を探究し、本質を洞察する方法を知るには哲学も必要だと思うのですが、「哲学の知識」があっても、「哲学的な思考」が出来るとは限りません。私の場合、そのような思考を、美術を通して学ぶことが出来ました。あらためて思ったのは、私にとって、絵を描き続けてきたことはとても大きかったということです。絵を勉強すれば、必ず本質を見抜く目を養えるわけではないと思います。しかし、観察表現において最も重要なことが「本質を見抜くこと」であり、デッサンを繰り返すことはその訓練である、とされています。その第一歩は「自分の目を疑うこと」ではないかな、と思いました。 .. 2022-10-23T15:20:00+09:00 『百万本のバラ』 http://tshibata.blog03.linkclub.jp//index.php?itemid=231782 少し前の話になりますが、6月1日はうしお画廊の創立記念日ということで、6周年のお祝いにお伺いしました。オーナーの牛尾さんはお酒全般がお好きですが、ウイスキーはバーボンがお好きだとおっしゃっていたので、私からはコーヴァルのシングルバレル・バーボンをプレゼントしました。続々と駆けつける関係者から送られるプレゼントには必ずと言って良いほどお酒が入っており、ビールにワインに日本酒と、様々な種類のアルコールが集まって壮観だったのですが、その中にジョージアのワインがありました。ジョージアと言えば「ニコ・ピロスマニ」、ピロスマニと言えば『百万本のバラ』ということで話も弾みました。そこで、今日は『百万本のバラ』の話をしたいと思います。日本では加藤登紀子さんの歌で知られており、おそらくほとんどの方が『百万本のバラ(Миллион роз)』といえばその曲を思い浮かべるのではないでしょうか。しかしこの曲、元は1982年、私が15歳の頃の旧ソ連での大ヒット曲です。ジョージアの画家ニコ・ピロスマニがフランスの女優マルガリータに贈ったという「百万本のバラ」のエピソードのこの曲ですが、ラトビア出身の作曲家、ライモンド・パウルスが作った別の曲に、ロシアの詩人、アンドレイ・ヴォズネセンスキーが詩をつけ、ロシアのポップスの女王、アーラ・プガチョワ(Алла Пугачёва)が歌って世界的に有名になりました。当時中学3年生だった私は、この曲がヒットチャートを駆け上っていくのをモスクワ放送(外国向けラジオ放送)で聴いていました。ちなみに、この当時のモスクワ放送日本語課の人気アナウンサー・西野肇さんが、この曲の入ったアルバムの日本盤発売の立役者だったそうです。興味のある方はこの本『冒険のモスクワ放送: ソ連“鉄のカーテン”内側の青春秘話』を読んでください。この『百万本のバラ』ですが、様々な民族の芸術家が関わった作品であり、多くの民族と国家の集合体だったソ連ならではの作品だったのではないか、とも言われています。やはり様々な価値観や文化が交わることで、良いものが生まれるのではないかと思います。さて、余談ですが、最近の研究者の間ではこのエピソードはヴォズネセンスキーの創作ではないかと言われているそうです。確かに、貧しい画家・ピロスマニが小さな家と絵を売って、百万本のバラを買えるのか、そしてどうやって女優の宿泊 .. 2022-07-30T00:23:43+09:00 文化ボイコットについて思うこと http://tshibata.blog03.linkclub.jp//index.php?itemid=231735 先日、病院帰りにお茶の水の「ディスクユニオン」で、ムラヴィンスキー指揮/レニングラード・フィル演奏の2枚組ライヴCDを購入しました。ショスタコーヴィチの5番、プロコフィエフのロメオとジュリエット、チャイコフスキーの5番が収録曲です。私は若い頃からムラヴィンスキーが好きで、既にこれらの曲のCDはいくつか持っているのですが、録音された日が違うので、また買ってしまいました。結果、期待通りの良い演奏で、かつ音質も良かったので、このところ車移動の際は毎回聴いています。さて、ロシアとウクライナが戦争状態になった2月下旬以降、日本では様々なロシア文化のボイコットがありました。中でも日本のオーケストラが、チャイコフスキーの作品を演奏プログラムから外すという出来事があったらしいのですが、それについてどのように思いますか?と、ある方からのご質問がありました。これは、私の制作や研究とロシア文化との関係性から、尋ねられたのだと思います。正直、チャイコフスキーをやめたところで戦争は終わらないのに、なぜそういうことをするのか、私には理解に苦しむところがありますが、察するに「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということなのでしょう。かつてソ連ではナチス・ドイツの時代でも、政治と文化を混同することはなく、ドイツ音楽であるバッハ、ベートーヴェン、加えてヒトラーのお気に入りの作曲家だったワーグナーの演奏を取りやめたりすることはなかったそうです。しかし、我が国では、戦時中、ジャズを始め英米音楽は「敵性音楽」として演奏も聴くことも禁じられました。英語そのものも「敵性言語」として禁じられました。つまり、我が国には歴史的に文化ボイコットの前例があり、そういう考えが今日まで根付いているということがわかります。以下が私が答えた内容です。------------チャイコフスキーの音楽を聴いていると、その美しさに心が震えます。私は芸術に携わる者として、このような素晴らしい作品を作ったチャイコフスキーに対して畏敬の念を抱きます。このような気持ちは「今回の戦争に対してどう思うか」とは、全く別のものだと思います。もし「チャイコフスキーは(今回の戦争で)憎むべきロシアの作曲家だから、今年2月下旬以降は彼の音楽を聴くことで怒りを覚えるようになった」という人がいるとしたら(勿論そう考えること自体は自由なのですが)、それはその人の思想の問 .. 2022-07-12T20:41:30+09:00 感動は与えるものではなく、感じてもらうもの http://tshibata.blog03.linkclub.jp//index.php?itemid=231736 絵描きは人に感動や安らぎを与えるために絵を描いているわけではありません。自分の芸術的信念に基づいた、より良い作品を制作することを目標に努力するのみです。その結果として、出来上がった作品をみた誰かの心を動かすこともある、ということです。感じていただけるのです。だから私は、人に感動を与えることを目的にして制作している美術家は、基本的に芸術的良心や芸術的信念が不足していると思っています。 2022-05-25T20:53:00+09:00 絵を教えることについての雑感 http://tshibata.blog03.linkclub.jp//index.php?itemid=231182 「自分では出来るが、人に教えるのは苦手、あるいは教えられない」というタイプは、美術家には結構多いと思います。しかし、結局、人に教えることが出来ないのは、その技量に関して実際にはきちんと掴めていないからだともいえます。そして、その美術家がどんなに魅力ある作品を作っていようと、人に教える能力がなければ「文化を継承していく」という点において大きく欠けることになります。私はこの「文化を継承していく」ことは、あらゆる文化・芸術に携わる人に課せられた役割のひとつだと考えています。新自由主義的な考え方からすれば、結果が全ての成果主義ですから、人に教えるのは損だと考える方もいらっしゃるようですが、そもそも教えられる技術や知識だけが作品を決定づける訳ではありません。知識、技術、ものの見方や考え方の基本を教えることは出来ますが、それらをどのように使うかによって、作品の内容は大きく変わります。「美術は教えるものではない」とよく言われる先生の多くは、こういう基本的なことは教えないのですが、もっと末梢的、実利的な「ノウハウ」や「絵作り」については教える人が多いようです。 2021-07-20T23:58:00+09:00 現代美術の危機的要素 http://tshibata.blog03.linkclub.jp//index.php?itemid=232035 現代美術の特徴を挙げていきます。まず「物質性」と「精神性」の乖離です。極めて即物的で合理的、もしくは極めて観念的で非合理的のどちらかに激しく偏っているケースが多いといえるでしょう。またそれを前提に、特に「抽象性」と「観念性」の偏重がみられます。可視の世界を卑下し、見えない世界こそ尊い、美しいという姿勢です。加えて、美術を社会の柱として「信頼」できない、いわば芸術文化そのものへの信用失墜もみられます。結果的に「芸術は好きな人がやれば良い。取るに足らないものである」という考え方の人を多く生み出しました。一部の限られた人だけに理解されれば良いという、思い上がりのようなものを一種のウリにしているのも特徴です。 2020-09-09T22:02:00+09:00 古典絵画、近代絵画における色彩表現と日本の現代絵画について http://tshibata.blog03.linkclub.jp//index.php?itemid=229499 先日、国立西洋美術館で『ロンドン・ナショナル・ギャラリー展』を観て、日本の現代絵画について、主に空間表現(ヴァルール)について、少し思うところを書きましたが、その続きです。絵具をパレットで混色して塗った色は、減法混色といいます。その混色過程は完全に物理的なもので、眼の外部で混色された結果としての色光が目に入射して色として認識されるものです。それに対し、ハッチングやスカンブリングで絵具を重ねたり、モザイクや点描で色を並べて描く場合、遠目には細かな色の粒が響き合って別の色に見えるのですが、これを中間混色(並置混色)といいます。個々の色を示す色光は物理的には別個に目に入射するのですが、眼(および脳)において生理的に混色されて認識されるものです。人間の脳が認識する色が最終的に同じであっても、より複雑な色の響き合いで生まれた色の方が美しく感じます。そして、その複雑さはその度合いを調整することができるため、差をつけることが出来るのです。同じ色でも、単調で差がない場合、どうしても作り物っぽく見えてしまうし、空間や質感を描き分ける手立てが、その分少なくなってしまいます。古典絵画では、見た目には固有色中心の明暗のグラデーションでしたが、顔料や展色剤の制約から、混色よりも重色による視覚混合が優先的に行われました。近代絵画では、明暗のグラデーションよりトーンで捉えることを重視し、混色を行いましたが、画面上で様々な色を並置することで視覚混合を行いました。現在、我が国の「写実系」具象絵画に比較的多い表現は、固有色に近い色を混色で作って、絵具を緩くぼかしながら明度段階をグラデーションして描くやり方です。眼の外で物理的に混色するこの方法だと、色調は単調となり、タッチを殺した画面は変化を弱めてしまうので、ヴァルール表現に不利となるため、空間表現が弱くなりますし、画面が均質化するので質感も弱くなってしまいます(「オートマチック系」はそもそも色彩が形や空間と関連していないので、ここでは省略します)。結果的に、銀塩写真に近い表現は出来ますが、色彩感はグラビア印刷(減法混色と中間混色の併用)に劣る状態になってしまいます。現在我が国で主流の具象絵画は、ある意味、ルネサンス期の古典絵画の良いところと、印象派以降の近代絵画の良いところを捨て去り、欠点を組み合わせたような状態で描かれた作品が多くなっている気がしま .. 2020-08-11T10:41:00+09:00 『ロンドン・ナショナル・ギャラリー展』を観て、最近の具象絵画について思ったこと http://tshibata.blog03.linkclub.jp//index.php?itemid=229498 最近の具象絵画の主流は、写真に裏付けされた形と、タッチを殺した固有色のグラデーションによる着彩がメインの「写実系」と、空間や立体と関連性のない線によって描かれた形と、形の変化と関係のない色によって構成された「オートマチック系」に分かれるような気がします。人気があることによって、主流となっているのでしょうから、それは市場の原理として受けとめるべきで、問題とは思っていません。また、そのような表現の是非について論ずるつもりもありません。私が思うのは、これらを生み出すもとになっているもののひとつに、教育が関わっているのではないかということです。美術教育、それも実技の専門教育の場において、ものの観方、捉え方をどのように教えるべきか、様々な考えがありますが、私は基本的に、過去の巨匠たちによって積み上げられてきた遺産は、流行とは関係なく引き継ぐべきだと考えています。ひと通り学んだ上で、自分の表現として選んでいるのであれば、何の問題もないのですが、もし教育の現場に市場原理が優先されているのだとしたら、学問や文化という観点からは問題だと思います。現在、我が国の美術の専門教育は、デッサンにおいてトーン(調子)の使い分けを軽視する傾向にあるように思います。このことは当然、タブローにも影響していると考えるべきです。これは、ニュートン以来の色彩学によって、過去の巨匠たちが発展させ、セザンヌによって完成をみた近代以降の『ヴァルール』の概念を、ルネサンス期の『モドゥレ(明暗による肉付け)』に退化させてしまっているように思えてきました。セザンヌ以降の近代絵画においては、トーンを駆使することで、ヴァルールを整え、空間を表現するという新たなメソッドが成立したにもかかわらず、一見矛盾するかのように、平面性の強い絵画が多くなっていくわけです。このことは、もしかしたら今日のトーンを軽視する絵画教育にも繫がっているのかもしれません。しかし、ヴァルールによる空間表現が可能だからこそ、平面性の強い絵画でありながら、リアリティのある空間や立体を創出することが出来たわけで、これこそが近代以降の絵画、20世紀モダニズム絵画の大きな魅力だと私は思っています。私たち制作者は、そして美術教育や造形学に関わる人は、この時代の『絵画の平面化』は、決して額面通りではないことを忘れてはならないと思うのです。このことについて、西洋美術 .. 2020-08-01T16:32:00+09:00 デッサンについて http://tshibata.blog03.linkclub.jp//index.php?itemid=229500 デッサンに対して否定的な考えを持つ人の多くは、デッサンを単に技巧だと勘違いしていることが原因であることが多いと思われます。勿論、デッサンには技巧も含まれますが、デッサンを行う目的は、技巧を磨くことが第一目標ではありません。美術が形や色を用いて表現する視覚芸術である以上、その内容を観賞者に伝える為には、「どのように作ったら、どのようにみえるのか」を作り手は理解していなければなりません。その為には、目の前にあるものの本質を見抜く観察力が必要になります。重要な情報を選別し優先順位を把握する分析力も必要です。作品に描く事物がその内容を示す為に、必要になる最低限の情報を見抜き、それらを整理して再構築し、視覚的に表現することにより造形作品は成立します。それに必要な能力を養うには、デッサンが有効なのです。もしデッサンが見えた通りに描き写す作業だとしたら、そのような能力を鍛えることは出来ないでしょう。必要な情報と不必要な情報を均質に拾ってしまったり、あるいは必要な情報であっても見落としてしまったり、見誤ってしまう可能性もあります。たとえ実際の見かけは些細な変化であっても、造形的に重要な情報であるなら、強調してでも描かなくては伝わらないのです。デッサンは、視覚から得た情報を基に、表現するまでの間にやらなくてはならないことを出来るようにする為に必要な勉強として最も有効な手段だと言えるでしょう。 .. 2019-11-03T11:13:00+09:00 第48回多摩美術家協会展 http://tshibata.blog03.linkclub.jp//index.php?itemid=228434 第48回多摩美術家協会展が始まりました。前代表・張替眞宏先生が亡くなられて、今回より私が代表を務めることになって、初めての展示です。2日目の午後、阿部裕行多摩市長が会場に来られたので、ご挨拶し、昨年亡くなられた張替眞宏先生の遺作の前で、張替先生の想い出話などをさせて頂きました。長年、多摩美術家協会の活動を通して、この地域の文化芸術の発展に寄与されてきた張替先生のご意思を尊重し、ご遺族のご厚意で、多摩美術家協会を通して作品を多摩市に寄贈したいというお話に対し、「願ってもない素晴らしいお話」と市長。「張替先生は多摩市を代表する画家。その作品は多摩市の宝です」という阿部市長の言葉が嬉しかったです。 2019-09-22T23:18:00+09:00 セザンヌと印象派作品の違い http://tshibata.blog03.linkclub.jp//index.php?itemid=229501 セザンヌの作品と印象派の作品の違いを比較してみたとき、特に目立つものの一つに、明度のコントラストがあります。印象派が用いなかった黒を使っていることもその差を際立たせていますが、セザンヌはその明度コントラストを主に形のキワに集中的に使用しているのです。そのことで、モチーフの形態がはっきりとするだけでなく、画面全体の流れやリズムを生み出しています。つまり、これは明度対比の強調です。その強調に対し、片ぼかしを用いることで、明度の整合性を保っている点は、ルネサンスのスフマートと同じですが、スフマートがよく観察しないとわからないくらいに自然に変化させているのに対し、セザンヌははっきりとわかるようにグラデーションしています。そしてこれは、セザンヌの「モデュレーション」、ルフレ(色の反映)の理論をより効果的にみせていると考えられます。明度コントラストを強めることは、明度差を広げることであり、明部をより明るく見せることが出来ます。結果的に、明部の明度段階をより増やすことを可能にするのです。 2019-09-05T11:23:00+09:00